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日本漫画の発展の軌跡をご紹介します。漫画制作のお役に立てれば幸いです。

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日本漫画の歴史について
日本の漫画は平安時代に鳥羽僧正が描いたとされる絵物語鳥獣戯画を起点としています。やがて江戸期になると、版画という印刷技術の発達に伴い大衆娯楽となっていきました。日本の漫画制作はこうした経緯を経て世界に誇る漫画文化を築いてきたのです。「日本漫画」の発展の軌跡をご紹介いたします。

目次
1.「漫画」という語源
2.日本の漫画の元祖
3.絵巻物の漫画表現
4.江戸時代の北斎漫画
5.漫画の「ふきだし」
6.幕末に漫画雑誌発刊
7.日本初の連載漫画
8.日本初の漫画団体「東京漫画会」
9.「新漫画派集団」結成
10.子供雑誌「少年倶楽部」
「漫画」という語源
「漫画」という単語の意味は、おそらく「漫」と「画」の組み合わせであることから「面白おかしい絵」を表していると思われます。「漫画」の語源は中国語の「漫筆」から派生したようです。

さらに、1798年発行の絵本『四時交加』の序文には、山東京伝により「気の向くままに描く」という意味の言葉として使用されたようです。その後、1814年の葛飾北斎の「北斎漫画」により、戯画風のスケッチを指す「漫画」という言葉が広まりました。


日本の漫画の元祖
日本の漫画の元祖は「鳥獣人物戯画(通称・鳥獣戯画)」であろうと言われています。有名な鳥獣人物戯画は、京都市右京区の高山寺に伝わる紙本墨画の絵巻物で国宝となっています。ちなみに、作者は鳥羽僧正であると言われているが、実際は定かではありません。実は、鳥羽僧正が作者であるとされる資料がなく、各巻の成立が年代や作者が異なることから、絵の一部でも鳥羽僧正の筆が加わっているかどうか疑問視されています。


絵巻物の漫画表現
他にも絵巻物には現代の漫画的な表現で描かれているものがあります。たとえば、「富裕草子」などです。この「富裕草子」の主人公が屁芸で成功する話では、登場人物の横にセリフが描かれています。これは、現代漫画の「ふきだし」と同じです。

また『信貴山縁起絵巻』では一枚絵で場面転換をしており、テクニック的にも「現代の漫画」に似た要素が含まれています。信貴山縁起は平安時代末期の絵巻物で、やはり国宝です。

ただし、こうした絵巻物は庶民にとって一般的ではありませんでした。18世紀になると商品としての戯画、いわゆる漫画が流通するようになりました。そして、19世紀には漫画のような浮世絵が登場したのです。こうして庶民に流通するには廉価であることが条件ですが、版画という印刷技術が発達することでそれが可能となりました。やがて、その版画が漫画の発展を促すことになったのです。


江戸時代の北斎漫画
江戸時代になると版画の技術がさらに進歩し、浮世絵が庶民の娯楽へと浸透していきました。そして、葛飾北斎の「北斎漫画」が登場します。

北斎漫画はヨーロッパにも影響を与えました。ただしこの北斎漫画は、葛飾派の弟子たちのための教本として描かれたもので、庶民に流通することはありませんでした。この教本を手本に、弟子たちが「漫画」を描くようになったのです。

また当時の売れっ子浮世絵師たちの多くも、戯画、つまり漫画を描いていたようです。ただし、彼ら浮世絵師が描く漫画は商売のために描いたのではなく、浮世絵師本人が娯楽のために好きで描いただけだったようです。たとえば、歌川広重や歌川国芳らも役人のために描いてあげたり、また芸者さんのために描いてあげていました。


漫画の「ふきだし」
草双紙の「黄表紙」は絵に文が添えられた滑稽な読み物でした。その中の「金々先生栄花夢」で夢を見るシーンには「ふきだし」が使われています。現代の漫画と同じような手法が、この頃すでに使われていたことになります。

また「東海道中膝栗毛」で有名な十返舎一九は、当初は自分ひとりで絵と話を作っていました。ところが次第に自身は原作者に専念するようになり、作画は別の作家に任せるようになったようです。つまり、現代漫画における原作者と漫画家の関係と同じです。

そして、江戸時代のこうした漫画(戯画)は、鳥羽僧正の名にちなんで「鳥羽絵」とか「大津絵」「狂画」などと呼ばれました。


幕末に漫画雑誌発刊
やがて幕末期には、日本で初めて漫画雑誌が発刊されました。それが「ジャパン・パンチ」という漫画です。
発行者はイギリス人チャールズ・ワーグマンという人で、横浜居留地で発行されました。ただし、日本語ではなく英語でした。それでも彫師・摺師は日本人で、紙も和紙が用いられました。

そして、この雑誌の発刊を機に、漫画雑誌の拡散が始まったのです。
ジャパン・パンチの表紙絵
(「ジャパン・パンチ」表紙)
日本初の連載漫画
1874年には河鍋暁斎と仮名垣魯文が「ジャパン・パンチ」を参考にして「絵新聞日本地」を刊行しました。さらに、「寄笑新聞」が刊行され、1877年には明治時代を代表する漫画誌「團團珍聞」が創刊されました。そして1896年、この「團團珍聞」に日本で最初の連載漫画が掲載されたのです。それが、田口米作の「江の島鎌倉長短旅行」です。

この「江の島鎌倉長短旅行」は、「長」と「短」という主人公2人組による観光旅行漫画でした。ちなみに、河鍋暁斎や田口米作らは浮世絵師から転身した漫画家です。


日本初の漫画団体「東京漫画会」
1915年、岡本一平は日本初となる漫画家団体「東京漫画会」を設立しました。この「東京漫画会」が、後の「日本漫画会」です。岡本一平は、東京朝日新聞で「人の一生」などの漫画漫文の連載を始めました。

この連載で、現在のストーリー漫画の原型を作り上げたと言われています。そして、1923年に発表された織田小星作・樺島勝一画の「正チャンの冒険」や麻生豊の「ノンキナトウサン」以降、コマ割りやふきだしなどの漫画の表現手法が定着するようになりました。


「新漫画派集団」結成
また同年、近藤日出造や横山隆一、杉浦幸雄らの若手漫画家が集まり、「新漫画派集団」が結成されました。

そして、この新漫画派集団の作家たちは、それまでの毛筆による制作ではなく、ペンで漫画を描いたのです。このスタイルは、欧米のナンセンス漫画に影響された日本独自のナンセンス漫画を主要な作風としました。

やがて新漫画派集団は大衆の支持を獲得し、北沢楽天や岡本一平、さらにはその弟子たちをしのぐ人気を獲得していったのです。そして、この新漫画派集団の作家たちが、後に第2次世界大戦後の日本漫画界の中心となっていきました。


子供雑誌「少年倶楽部」
1930年代には、講談社の「少年倶楽部」などの子供雑誌で連載されていた「のらくろ」「タンクタンクロー」「冒険ダン吉」などの子供向けの人気漫画が単行本化されベストセラーとなりました。

しかし、そうした漫画の単行本は子供たちにとって高価でした。そして、子供たちの感心は手軽な紙芝居へと向いたのです。この紙芝居は関東大震災以後に普及し、手書きの紙芝居もあれば印刷ものまでありました。



戦後の漫画については以下をご参照ください→
  漫画は時代の写し鏡
現代漫画制作について
北斎の漫画制作プロダクションが原型
複数いたとされる葛飾北斎は工房で漫画制作を行い、版画で作品を大量印刷してプロダクション経営を行ったいました。このスタイルは現代の漫画制作プロダクションと同じです。彼は先駆者として漫画で生計を立てる漫画家だったのです。
現代の売れっ子漫画家はとてもひとりで連載を続けることは困難なほど忙しいのです。しかも枚数だけでなく漫画の質もレベルが高く、質と量を考慮してひとりで仕事を抱え込むことは無理です。
そうした状況を解決してくれるのが制作プロダクションです。人気のある有名漫画家のほとんどがプロダクションで漫画を制作しています。


原作者と漫画家の両立
漫画家が多忙になってくるとストーリーを作っている時間がありません。そこで原作者が物語を作るようになりました。すべての漫画がそうではありませんが、物語が複雑になってくるとストーリー作りにはかなりの時間を要します。作画に時間がかかる上にストーリー作りに時間がかかると、締め切りに間に合わなくなってしまいます。
原作者の存在は漫画家にとって非常に有難い存在なのです。

漫画は絵だけではなくストーリーがとても大事です。そういう観点からも漫画原作者の巧みなストーリー展開は重要です。探偵ものや謎解きなどの物語はシナリオが大事ですから、原作者がシナリオ作りに専念してくれたら有難いのです。ストーリー作りに割く時間を作画に専念できるのですから漫画家としてはとても助かります。

パソコンでの制作
作画の環境は近年大きく変化してきました。それまでの手描きからパソコンを使った作画に替わってきたのです。便利になったものです。しかし、漫画を制作するという作業は変わりません。単にツールとしてパソコンを使っているだけで本質的な部分は同じなのです。

私たち漫画家は先人たちの業績を引き継ぎ、さらに質の良い漫画を制作するように心掛けていくべきです。歴史は過去の経験であり財産です。そこから学ぶべき点は多々あります。
参考ページ→
 北斎漫画について



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