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| 漫画を制作し印刷するまで、業界で使われる専門用語の知識は必須です。打ち合わせの段階から完成まで、専門用語は頻繁に使われます。そうした用語を詳しく解説いたします。 ぜひお役立て下さい。 |
| 十返舎一九 |
| 項目 |
| 1.十返舎一九とは 2.駿河から江戸へ 3.東海道中膝栗毛 4.火葬にされて花火が |
| ●十返舎一九とは 1765(明和2)年、戯作者であり絵師の十返舎一九は駿河に生まれました。本名は重田貞一、幼名は市九といいました。 しかし、出生には不明な点が多く、父は千人同心だったとか駿河国府中の代官だったとも言われています。駿河町奉行重田氏の養子であったことは確かなようです。 やがて、駿河から出て来て江戸で武家奉公をすることとなり、1783(天明3)年には大阪に出て大坂町奉行小田切直年に仕えたようです。 項目に戻る ●駿河から江戸へ 1794(寛政6)年、30歳で江戸に戻り、蔦谷重三郎の家に住み込んで出版の手伝いをしました。そこで挿絵も描いていました。 1795(寛政7)年になると、蔦谷の薦めで黄表紙を出しました。「心学時計草」という書籍の他、3冊の黄表紙を出版したのです。翌年から、大いに黄表紙制作に励みました。 文才があるだけでなく画才にも秀でていたので、版元蔦谷重三郎にとっては便利な作家でした。一九は浄瑠璃から歌舞伎、狂言、川柳など、実に多才でした。 さらに、洒落本や人情本、狂歌集なども書き、黄表紙以外にも才能を発揮したのです。また、遣唐使の吉備真備を題材にした「吉備大臣図」などでは、優れた画才を発揮しています。 項目に戻る ●東海道中膝栗毛 やがて1802(享和2)年になると、一九の代表作となる「東海道中膝栗毛」が発表されます。この作品で一九は一躍流行作家となりました。取材旅行では、山東京伝や式亭三馬らと交友していました。 「東海道中膝栗毛」は現在でも「弥次さん喜多さん」で有名であり、「弥次喜多道中」としても親しまれています。 項目に戻る ●火葬にされて花火が 1810(文化7)年、46歳で眼病を患い、58歳では中風を患いました。晩年は飲酒により身体が不自由になり、1831(天保2)年8月、67歳で亡くなりました。火葬にされたとき、体に仕込んであった花火が上がったと言われていますが、創作だろうと思われます。 項目に戻る |
| 参考ページ→ 擬人化 資料 鳥獣戯画 鳥羽僧正 十返舎一九 浮世絵 河鍋暁斎 岡本一平 北沢楽天 安藤広重 狩野派 歌川国芳 タンクタンクロー 山東京伝 菱川師宣 黄表紙 蔦屋重三郎 琳派 曲亭馬琴 朋誠堂喜三二 平賀源内 |
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