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漫画制作で使われる用語の説明


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漫画制作の用語「あ行」
漫画を制作し印刷するまで、業界で使われる専門用語の知識は必須です。打ち合わせの段階から完成まで、専門用語は頻繁に使われます。そうした用語を詳しく解説いたします。
ぜひお役立て下さい。
歌川国芳
項目
1.歌川国芳について
2.国芳の番付
3.兄弟子の家に居候
4.師豊国逝去後に
5.天保の改革
6.江戸のヒーロー
●歌川国芳について
歌川国芳は江戸時代末期に活躍した浮世絵師です。1798(寛政9)年、国芳は日本橋で染物屋を営む柳屋吉右衛門の子として生まれました。幼名は井草芳三郎といい、後に孫三郎と改名しています。

幼少期から絵を描き、12歳の時に孫三郎が描いた「鍾馗提剣図」を見た初代歌川豊国が孫三郎を入門させました。この頃、孫三郎は15歳でした。当時、歌川豊国は役者絵で人気の花形絵師でした。

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●国芳の番付
1813(文化10)年ごろ、戯作者と浮世絵師の格付けを相撲の番付に見立てて発表されました。それによると「国芳」は前頭27枚目となっていました。つまり、このころには「国芳」の名を使っていたと思われます。そして翌年には、錦絵「三世中村歌右衛門の春藤次郎左衛門」を制作しました。

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●兄弟子の家に居候
この頃、国芳はお金がなかったので、当時歌川派を代表する兄弟子の家に居候して兄弟子の仕事を手伝っていました。この仕事は技術の修得に役立ちました。しかし、人気は出ませんでした。この頃、国芳は勝川春亭にも学び、葛飾北斎の影響も受けていました。

その後、「平知盛亡霊図」や「大山石尊良弁滝之図」を描いて、わずかに人気がでたのですが、師匠歌川豊国や兄弟子国貞の人気に勝てません。しばらくは不遇な時期が続きました。

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●師豊国逝去後に
しかし、師豊国が亡くなると、国芳が制作した「通俗水滸伝豪傑百八人」や「本朝水滸伝豪傑八百人」の「水滸伝」シリーズが評判となりました。やがて、「武者絵の国芳」と呼ばれるようになり、人気が出始めたのです。国芳は名所絵でも評判となり、さらに美人画や役者絵でも多くの作品を発表しました。

1830(天保元)年、新和泉町玄冶店の借家に転居し「朝桜楼」の号を使い始めました。そして、武者絵や風景画や美人画などを写実的な着眼から制作していきました。

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●天保の改革
ところが、老中水野忠邦の天保の改革により、質素倹約や風紀粛清が社会に浸透してきました。こうしたご時世から、役者絵や美人画も禁止されてしまいました。

この幕府の理不尽な弾圧に対して、国芳は皮肉を込めて「源頼光公館土蜘作妖怪図」を描きました。「源頼光公館土蜘作妖怪図」は平安時代の武将源頼光の土蜘蛛退治を描いたものでした。しかし、絵の本質は別でした。

土蜘蛛に苦しめられているのは源頼光のほうであって、頼光を将軍徳川家慶に見立てて描いたものだったのです。幕府は国家危急のご時世に惰眠を貪っているとの批判を込めた作品でした。

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●江戸のヒーロー
こうした歌川国芳の作画に対して江戸市民は大喜びでした。ところが、幕府は国芳を要注意人物としてマークし始めたのです。しかし、尋問や罰金を受けても国芳は制作を止めませんでした。こうした国芳は喝采を浴び、江戸中のヒーローとなったのです。

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参考ページ→
浮世絵
十返舎一九
河鍋暁斎
岡本一平
安藤広重
狩野派
江の島鎌倉長短旅行
歌川国芳
山東京伝
黄表紙
蔦屋重三郎
琳派
曲亭馬琴
朋誠堂喜三二

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