| HOME> 漫画制作で使われる用語の説明>は行>平賀源内 |
![]() |
| 漫画を制作し印刷するまで、業界で使われる専門用語の知識は必須です。打ち合わせの段階から完成まで、専門用語は頻繁に使われます。そうした用語を詳しく解説いたします。 ぜひお役立て下さい。 |
| 平賀源内 |
| 項目 |
| 1.平賀源内とは 2.幼少期の源内 3.その後 4.江戸へ 5.日本初の物産会 6.田沼意次との交流 7.産業への活発関与 8.出羽秋田藩へ 9.エレキテルの発明 10.源内獄死 |
| ●平賀源内とは 平賀源内は江戸時代に活躍した博学才穎の天才です。1728(享保13)年に讃岐国寒川郡志度浦(現在の香川県さぬき市志度)に白石茂左衛門の3男として生まれました。母は山下氏でした。白川家は足軽相当の身分でした。 源内は信濃国佐久郡の信濃源氏大井氏流平賀氏の末裔と称していました。しかし、武田氏の「甲陽軍鑑」には、1536(天文5)年11月に平賀玄信が武田信虎の攻め滅ぼされたと記されています。 その後、平賀氏は奥州白石で伊達氏に仕えて白石姓に改めたようです。さらに伊予宇和島藩に従って四国へと渡り、讃岐に移りました。その讃岐において、源内の代で姓を白石から平賀に復姓したようです。 項目に戻る ●幼少期の源内 幼少の頃の源内は、掛け軸に細工を施した「お神酒天神」を作成したと言われています。それが評判となり、13歳から藩医の元で本草学を学びました。本草学というのは、薬用となる植物を中心として鉱物などを研究する中国由来の学問です。 また儒学を学びながら俳諧も行っていました。 項目に戻る ●その後 1749(寛延2)年に父茂左衛門が亡くなると、源内は父の後役として藩の藏番に就きました。しかし、身分の低い源内は、藩士から軽んじられていたようです。 その後1年間、長崎に遊学しました。身分の低い源内が遊学できた理由は諸説ありますが、本草学や物産学を好む藩主松平頼恭の「内命」があったのではないかと言われています。 留学を終えて長崎から戻ると、源内は病気がちであることを理由に藩の蔵番を退役しました。妹に婿養子を迎えさせて家督も譲りました。 そして、1755(宝暦5)年には、量程器や磁針器などを製作しています。量程器は歩いた距離を測る器具で、磁針器は方角を測る器具です。 項目に戻る ●江戸へ それまで大坂や京で学んでいた源内でしたが、1756(宝暦6)年には江戸で本草学者田村元雄の元で本草学を学びました。また、漢字習得のために林家に入門しました。 林家入門の目的は、儒学のためというより、漢文で書かれた本草学の古典を理解することでした。 ●日本初の物産会 1757(宝暦7)年、平賀源内は日本初の物産会開催を発案しました。この物産会は薬種や物産を展示するもので、江戸では何度も開催されました。おかげで、源内の名は新進の本草学者として有名になりました。 そして、1759(宝暦9)年になると、源内は高松藩から医術修業者として3人扶持を与えられるようになりました。つまり高松藩の家臣になったということです。しかし、源内は仕官したとは考えていなかったようです。 1761(宝暦11)年、源内は江戸に戻るために仕官を辞してしまいました。ところが、高松藩では源内を「仕官お構い」として、以後幕臣への登用も他家への仕官もできなくなりました。 項目に戻る ●田沼意次との交流 同年、源内は伊豆で芒硝を発見し、その流通にも参画しました。「芒硝」は硫酸ナトリウムの事です。これらの物産会を開催したことから、幕府老中田沼意次と出会い交流を深めていきました。 1762(宝暦12)年に江戸の湯島で開催した物産会「東都薬品会」では杉田玄白や中川淳庵との交流も始まりました。江戸での平賀源内の知名度は高まりました。 1763(宝暦13)年には「物類品隲(ぶつるいひんしつ)という書籍で、黒砂糖を白砂糖に精製する方法を紹介しました。阿蘭陀博物学に関心があったようですが、源内は阿蘭陀語が理解できませんでした。原書を入手しては阿蘭陀通詞に和訳してもらっていたようです。 項目に戻る ●産業への活発関与 1766(明和3)年には、河越藩主秋元凉朝から奥秩父の秩父大滝の中津川における鉱物開発を依頼され石綿を発見しました。その後、秩父で炭焼きや荒川通船工事を行いました。その時に源内が逗留した建物は「源内居」として現存しています。 1772(安永)元年、江戸に戻った源内は秩父の中津川の鉱山開発を進め、たたら製鉄を始めました。 項目に戻る ●出羽秋田藩へ 同年、秋田藩主佐竹義敦の依頼を受けて、阿仁銅山で鉱山開発を担当しました。源内は、阿仁に向かう途中の角館で秋田藩士小田野直武に出会い、蘭画の描き方を教えました。源内は長崎で蘭画を学んでいたのです。 小田野直武は源内が阿仁から江戸に向かう道中を同道し、やがて江戸で杉田玄白らの「解体新書」に人体解剖図を描くことになります。 源内は小田野直武と江戸に向かい途中、上桧木内(現在の秋田県仙北市西木町)で村の子供たちに熱気球の原理を応用した遊びを教えました。この伝統は、現在でも西木村の紙風船上げとして伝承されています。 項目に戻る ●エレキテルの発明 1776(安永5)年、源内は長崎で入手したエレキテルを修理し、復元することに成功しました。エレキテルは静電気発生機でした。 当時の庶民にエレキテルは馴染みがなく、源内はエレキテルを見せ、さらに余興を加えることで見物客から謝礼を受けていました。 しかし、やがて経済状況も悪化していきました。 項目に戻る ●源内獄死 1779(安永8)年、神田にある源内邸に門人の久五郎と友人の丈右衛門がいました。ふたりは口論となりました。そこで源内は刀を抜いてふたりに傷を負わせてしまったのです。悪いことに、傷を負った久五郎が死んでしまったのです。 また、大名屋敷の修理を請け負いながら、酔って修理計画書を盗まれたと勘違いして町人を殺傷してしまいました。 同年11月21日に投獄されると、12月18日には破傷風がもとで獄死してしまいました。平賀源内、享年52歳でした。 項目に戻る |
| 参考ページ→ 浮世絵 十返舎一九 河鍋暁斎 岡本一平 安藤広重 北沢楽天 江の島鎌倉長短旅行 鳥羽僧正 菱川師宣 山東京伝 黄表紙 蔦屋重三郎 狩野派 見返り美人図 曲亭馬琴 朋誠堂喜三二 平賀源内 |
| あ行 か行 さ行 た行 な行 は行 ま行 や行 ら行 わ行 |
![]() takataka1123@office.nethome.ne.jp |