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| 漫画を制作し印刷するまで、業界で使われる専門用語の知識は必須です。打ち合わせの段階から完成まで、専門用語は頻繁に使われます。そうした用語を詳しく解説いたします。 ぜひお役立て下さい。 |
| 漫画集団 |
| 項目 |
| 1.漫画集団とは 2.新人漫画家の発表の場がない 3.新漫画派集団の躍進 4.戦時中の漫画集団 5.戦後の漫画家たち 6.「日本漫画家協会」の発足 |
| ●漫画集団とは 漫画家たちの集団で、1コマ漫画などの大人漫画を描く漫画を中心にメンバー構成されていました。当初は新聞や一流雑誌に掲載している漫画家が中心でしたが、1960年代には少年漫画などのストーリー漫画を描く作家たちも加わるようになりました。 「日本漫画会」には、岡本太郎の父岡本一平や北沢楽天、宮尾しげを、前川千帆らがいました。また、「漫画連盟」には下川凹天、麻生豊、宍戸左行らがいました。さらに「プロレタリア漫画のグループ」があり、田川水泡らの「児童漫画グループ」がありました。 こうしてグループを構成する背景には、個人で仕事を求めるより、グループで仕事を請け負ったほうが都合よかったからです。請け負った仕事をグループ内で分担して仕上げていたのです。つまり、出版社との繋がりの中で仕事を受注していたわけです。 項目に戻る ●新人漫画家の発表の場がない しかし、こうした状況は良いことばかりではありませんでした。出版社や既存グループに属する漫画家にとっては良くても、新人の若手漫画家にとっては作品の発表の場が遠のくという欠陥があったのです。 また、奇抜な作風を発表することも困難でした。出版社は作家に無難な作品を求める傾向があります。新しいことを始めて失敗することを恐れているのです。 そこで、ナンセンス漫画を模索していた杉浦幸雄と近藤日出造が、既成の漫画家たちのグループに対抗する新しいグループを作ろうと思い立ったのです。そして、横山隆一のグループにも参画を持ちかけました。 1932年に「新漫画派集団」を結成しました。メンバーは杉浦幸雄や近藤日出造、横山隆一が中心で、他にも無名だった若い漫画家たち20人が参画しました。 項目に戻る ●新漫画派集団の躍進 「新漫画派集団」は出版業界に歓迎され、メンバーの多くは「アサヒグラフ」の漫画欄に作品を掲載し知名度を上げていきました。都心に事務所を構え、メンバーたちは事務所で漫画制作を行いました。 さらに、マネージャーが仕事を受注し漫画家が制作を担当するという、まさに漫画制作プロダクションのスタイルをとっていたのです。 それぞれの漫画家が収入の10%を「新漫画派集団」の入れることで会派の運営費用としていました。事務所側は出版社との間で原稿料の交渉を行い、収入確保に努めたのです。 項目に戻る ●戦時中の漫画集団 戦時中には雑誌や新聞が統合されて発表の場が少なくなりました。そのため、「新漫画派集団」に属さないグループが合同を持ち掛けてきました。そして、「新日本漫画家協会」や「日本漫画奉仕会」などに統合されました。 しかし、大戦末期には「新漫画派集団」を中心として、若手の漫画家たちが「大東亜漫画研究所」や「報道漫画研究会」を名乗るようになりました。 項目に戻る ●戦後の漫画家たち 大戦が終わると、すぐに「大東亜漫画研究所」のメンバーが集まり「漫画集団」を結成しました。漫画や出版印刷業界の人材が不足していました。そうした中にあって、「漫画集団」の漫画家たちは新たな雑誌や新聞で活躍するようになりました。 「漫画集団」への取次は、代表幹事の自宅や事務所でした。かつてのような制作プロダクションのシステムはありませんでした。 項目に戻る ●「日本漫画家協会」の発足 1664年には「日本漫画家協会」が誕生しました。同協会は日本漫画界の職能団体として、漫画家の生活保護や著作権の管理なども行いました。 やがて手塚治虫や赤塚不二夫、石森章太郎、藤子不二雄といったストーリー漫画で活躍する漫画家たちも参画しました。 項目に戻る |
| 参考ページ→ 漫画原作者 日本漫画家協会 盗作 「漫画」とは 岡本一平 少年倶楽部 劇画工房 紙芝居 漫画集団 劇画 著作権 肖像権 ジャパン・パンチ 貸本漫画 アラーの使者 月光仮面 黄金バット 七色仮面 ぼくら 冒険王 |
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